【人観光地論】全ての地域はいかにして差別化をするべきなのか 地域活性化のために「人」を財産として捉えるということ

旅行を考える

人観光地論の概要

人観光地論はあくまで私が勝手に提唱している論である。その内容としては、「各地域を真に色付けるのは人間であるから、人間そのものが観光地となりうる」というものだ。

日本各地に独自性を見出す必要性

私は日本一周を3度行っているが、様々なまちを訪れると、「美しい海のまち」「温泉のまち」「山が綺麗」などといったアピールを行っている場所に多く出会う。これは一見、そのまちの独自性をアピールしているように思える。しかしよく考えてみれば、海が綺麗なまちも、山が綺麗なまちも、温泉があるまちも、この国には山ほど存在するのだ。

今多くの地域が衰退という危機に直面している。各地のさまざまな魅力を発信しなければ、移住者もいなくなり、廃村となる集落や、限界集落が多く生じることとなるだろう。このようなことを考えた際、各地の独自性やそこにしかない価値を発見することが必要不可欠となってくる。だが「海が綺麗」といった謳い文句だけでは、よっぽど海の違いが分かるような人でない限り目にとまることはなく、埋没していくのだ。そして有名観光地のみが注目され、残っていく

一方、隣町との違いを即座に見つけ出すことは非常に難しいだろうと考えている。よく似た自然環境や社会環境においては、文化や景色が似ることが多く、外にアピールできるような違いはほとんどないと思われる。そこで、全ての地域において被らないものとして提案するのが「人間」である

人間に代わりはいないはずだ

みなさんの親戚を1人、頭に思い浮かべてほしい。では、その人の代わりはいるだろうか。そう、いないのである。人間は基本的に全員が異なっており、「この人に会おう」と思った時に「まあ代わりにこの人でも良い」とはならないのである。もし推している芸能人がいたとして、仮によく似た別人がいたとしても、その全く知らない別人が出したグッズを買ったり、コンサートに行ったりすることはないだろう。

ここから分かる通り、人間はその内部に唯一無二性を秘めているのである。

しかし、これは常に起こるわけではない。ある程度相手を認識している必要がある。通りすがりの人が別人であったとしても、何も意識しない。だが知っている芸能人などを街中で見かけた際は、仮にそれが別人であった場合との人々の反応の違いは歴然としているだろう。

人間を観光地にするということ

このように、人間は知名度の武器を持つことによって、元々秘めていた唯一無二性を発揮し始めるのだ。この力をそれぞれの地域と結びつけることができれば、地域の独自性につながるのではないかと考えるのである。だが現状その人間の持つ唯一無二性は十分にいかされていないと感じる。

私は観光地などで、現地のガイドの人に会うことが多い。このようなガイドの人たちの中には癖がある人も多く、旅行が終わった後に私の中で印象に残っている人も多い。だが、現状私の記憶の中に残ったとしても、その町の発展や観光客増加には繋がらないのである。この方向を逆にすべきなのだ。「この現地ガイドに会うためにこのまちに行く」といった状況を作るのだ

私の地域活性化活動での実践例

この「人観光地論」を実際に東大が行っている地方活性化活動において試験的に実践した例があるので紹介したい。そこは、人口が40人未満の限界集落である。この集落にはとある特産品があり、その販売を通して関係人口を増加させようとしている。だが広報がうまくいっていなかった。そこで、住民3名の方の許可の元、SNS上でその3人が喋っている映像や画像などのコンテンツを大量に作成・投稿し、いわばインフルエンサー的存在となるように取り組んだ。その結果、それらのコンテンツを通じて町を知った人たちが表れ、東京で実施したイベントにおいてはその人たちに会うために多くの人が訪れたのだ。この施策の期間は2ヶ月ほどだったにも関わらず、一定程度の印象を与えることができた。より恒常的に行えば、多くの人々の中で地域と人の印象がリンクし、「街に行ってみたい」とか、「関わってみたい」と思えるようになるのではないだろうかと推察している。

人観光地論の問題点

この人観光地論にはさまざまな懸念点も存在する。一つには、人そのものの知名度と地域の結びつけの難しさだ。かつてよく似た概念としてゆるキャラが存在した。だが、キャラクターの知名度ばかりが先行し、地域の知名度向上にあまり寄与しなかった地域も多いのではないだろうか。人観光地論を実現するためにはこの点の設計が必要である。一方、SNSなどで有名なあのうなぎのおじさんは、「己のうなぎは自分で管理しろ!」といった印象で染み付いているのではないかと感じる。拡散のさせ方が肝となりそうだ

また、当たり前であるが属人性の高さも課題だ。ある程度アピールできるポイントや特殊性がなければ大バズりさせるのは簡単ではないし、その人がいなくなった後のことも考慮する必要がある。だが、地方によっては「2〜3人が興味を持ってくれたら良い」というところもあり、そこまで大きな規模で実施する必要のない場合もあることを考慮したい。フォロワー100人程度でも一定効果があると思われる。また、その人がいなくなったら続かないからやらない、と言えるほど地方に時間の余裕があるとは思えない。

当然のことながら、人をインフルエンサー化することだけをしていれば良いのではなく、その背後にある自然や文化などの維持も同時に行っていかなければならない。あくまでその町の魅力を伝えたり、あるいは魅力を一つ増やしたりする役割としての人観光地なのだ。

人を目的に、人が訪れる時代へ

このように、人には唯一無二性があることがお分かりいただけるだろう。その実現のためには乗り越えなければならないハードルがあまりにも多いが、人そのものを目的に人々が訪れるという時代になれば、今とは観光地の形が変わるのではないだろうか。今、人観光地論が一部具現化されている街は、大阪であろう。なんばグランド花月に行けばテレビやネットで見るようなお笑い芸人に会うことができる。人に会うために人が訪れるのだ。そしてその「人」を通して、街にある他の魅力に気づく機会を与える。そのまちを知ることにつながるのだ。

近年はインターネット等で自身をPRする機会は多くある。地方の人も含めてより多くの人がインフルエンサーなどとして地域の魅力の一つとなり、それを通して地域を知る時代はすぐそこに来ているのかもしれない。全国で一斉にこのようなことを始める必要はない。一部の地域だけでも、このアイデアが参考になれば幸いだ。

私はこの記事で「人観光地論を実施すべきだ」と主張したい訳ではない。あくまで、地域資源の一つとして「人」の価値にも注目すると良いのではないか、ということであった。

最後までご覧いただきありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました